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2008年11月 2日 (日)

大野病院事件は単なる失血死か?一麻酔科医としての疑問

めずらしく、マジメな話をさせていただく。

福島県立大野病院における帝王切開母体死亡をめぐる裁判が一段落したかと思いきや、今度は都立墨東病院における脳出血合併妊娠母体死亡で世間は大騒ぎである。一連の事件の背景にある、産科医不足や分娩そのもののリスクについては、幾多の優秀なブロガーが取り上げているので、ここでは割愛する。しかし私が一麻酔科医として、2年以上腑に落ちないことがある。それは、医学的な直接死因として

大野病院における帝王切開母体死亡は、単なる失血死だったのか?

という点である。この事件は何かと、奈良県の大淀病院や今回の墨東病院での周産期母体死亡とセットで語られることが多いが、「脳出血」という直接死因が明瞭な後2症例と比べて、この症例の直接死因については「単純な失血死」としては納得できない点が多い。


1.ホントの術中出血量は?

「失血死」とこの事件は大々的に報道されているにもかかわらず、この症例の術中出血量は未だ公表されていない。

麻酔科医の証人尋問で登場する数字は、2000,2555,7675といった数字である。福島県の報告書の文中では5000mlとの記載がある。報道によっては12085mlという記事もある。一方、検察側の論告求刑では20445mlとされているが、「麻酔記録の読み方をしらない検察が麻酔記録の出血量の欄に並ぶ数字を単純に足してしまった大チョンボ」という説もある。この裁判で検察側は、「臍帯と靭帯を混同」「クーパーを単なるハサミと誤解」といったシロートくさい数々のチョンボがあるので、この程度のチョンボはやりかねないと私は思う。

確かに、周産期の突発的な大出血では現場は修羅場になり、正確な出血量のカウントにはとても手が廻らない、というのは理解できる。しかし、これだけ日本の産科医療を震撼させた事件で、出血量が5~20リットルとリットルベースの推定においても未だ見解の一致を見ないというのは、由々しき事態だと思う。


2・麻酔科医の裁判証言より

ならば「最も信頼できる出血量の数値は?」と訊かれれば、「麻酔科医の証言する数値」だと答えたい。手術中の出血量の把握は、麻酔科医の仕事の一部であるし、検察・マスコミ・県の役人・担当麻酔科医の言う出血量が食い違っていたら、四者のうちで麻酔科医の言う数値を信頼するのは私だけではあるまい。

また、この麻酔科医は今後の民事裁判で産科医ともども訴えられる可能性は多いにある。こうした中で麻酔科医にとっては「裁判所が認める出血量が多ければ多いほど有利」である。出血が多いほど責任は産科医に重くなり、「下手な産科医につきあわされた気の毒な麻酔科医」と印象づけることができるからである。ゆえに、せっかく検察が20リットルという値を主張しているのに、あえて8リットル弱の数値を(自分に不利になるかもしれないのに)証言したのは、やはり真実の出血量の値がその近辺にあるからのような気がしてならない。

この事件で麻酔科医は、病院職員から緊急輸血をつのったが、GVHDを恐れて結局その血液は使用しなかった。このことからも、7675mlというデータに信憑性がうかがえる。出血20リットル超だったなら、問答無用で使用していたはずである。

なお同業者として言わせていただければ、この麻酔科医の臨床レベルはきわめて真っ当である。輸血の到着を待つ間をへスパンダー+ノルアドレナリンのワンショットでしのいだり、ショック状態の中でケタミン+サクシンで脊椎麻酔→全身麻酔にしたり、「慢性人手不足の僻地病院で修羅場をくぐって苦労してきたんだなー」と、しんみりしてしまう。フリーランスに転進すれば盛業するタイプと推察できる。


3.周産期の原因不明の心停止

麻酔科医の証言から推測されるストーリーはこうである。

「帝王切開で児を娩出した後に胎盤娩出が困難で大量出血をきたし、母体はショック状態におちいり、準備輸血を使い果たした麻酔科医は院内職員より輸血を募った。子宮全摘によって出血は下火になり、バイタルは低空飛行ながら安定してきたので麻酔科医は院内輸血の使用を保留した。手術が終盤を迎えた頃、産婦は突然心停止し懸命の蘇生にも反応しなかった」

ならば、なぜこの妊婦の心臓は止まったのか?

解剖も最近流行のAiも行われなかったので推測の域を出ないが、私が思いつくのは
・羊水塞栓症
・周産期心筋症(産褥期心筋症)
・肺血栓塞栓症
・肺塞栓が卵円孔を介して左房に迷入→脳塞栓
・大量輸血に伴う電解質の乱れ→不整脈→心停止
・薬剤の取り違え(例:トランサミン(止血剤)とアスパラK(カリウム)を間違えてワンショットなど;ただしこの病院では手術室にノルアドレナリンすら常備されていないらしく、アスパラKが常備されている可能性は低い)
といったあたりである。

そして、現代の医学では未だ解明されず「臨床的羊水塞栓」などとお茶をにごされているが、要するに「はっきりと説明のできない周産期母体心停止」という現象はまれではあるが確かに存在する。この事実は謙虚に受けとめるべきである。


4.心エコーは母体死亡回避に有効か?

「ならば、どうすれば再発防止できるの?」と問われたら、「万能ではないが、分娩室での心エコーにはその可能性がある」と答えたい。

羊水塞栓や肺塞栓は急性右心不全の像(RV拡大、TR)を呈するし、周産期心筋症は拡張性心筋症の像を呈する。卵円孔開存の有無も確認できる。上記6疾患のうち4疾患までは、ルールアウトできるのである。

「分娩室に機械がないでしょ?」と判断するのは早計である。現在、日本のどんな分娩室でも、産科エコーは常備されている。それを心臓にあてればよいのである。詳細な定量的評価はできなくても、「ほぼ正常」「右心不全」「心拡大+壁運動低下」「循環血液量不足」程度の鑑別は可能である。

「誰が心エコーをやるんだよ、すべての麻酔科医ができるとはかぎらないよ」という意見もごもっともである。しかし、現在の産科医は箸を使うがごとく毎日産科エコーを行っている。エコー機械の扱い自体は、平均的な麻酔科医よりは秀でていることが多い。胎児心奇形を診断できる産科医も多い。ゆえに、胎児の心臓を診るようなベテラン産科医ならば、まる1日特訓すれば母体心エコーの初歩はマスターできると思う。

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コメント

まさに私もずっと疑問だった点です。本当は彼女は何が原因でなくなったのか??
結局それは解明されないまま、はがしたのが指かクーパーか、うんぬんかんぬんが議論されておりました。
周産期の出血性ショックは大学にいたころも年に1,2件はありました。でも、心臓が止まる!!!と思うほどっていうのは結構ないものです。子宮摘出して暫くすれば落ち着いてくるし・・・・
だから本当の意味で大野事件から学ぶべきことがあるとすれば、先生のご指摘のように、「原因のわからない低血圧、ショック時にはぜひ心エコーを!!」ということなのかもしれません。でも自分ができるか?と言われると自信がない・・・・だろうな・・・・(←ここがいけませんね。反省)

投稿: runa123 | 2008年11月 2日 (日) 18時40分

この事件に関して、山のような会議や書類が作られ、いろんな医者が関わっていますが、純粋に医学的な症例検討がされていないのが非常に残念です。
再発防止の為には、絶対必要な作業のはずですが。

先生のおっしゃるとおり、「母は強し」ですよ。妊娠できる程度に若く健康な女性が出血8リットルで、麻酔科専門医がついていたならば、簡単に心停止しないもんです。

投稿: clonidine | 2008年11月 3日 (月) 00時13分

> 「ならば、どうすれば再発防止できるの?」と問われたら

私のサイトでもコメントしましたが、 諏訪邦夫先生も下記でコメントされております。

電子版麻酔学教科書 産科麻酔
http://masuika.net/forum/forum2.cgi?Forum=page10

投稿: 森 広 | 2008年11月 3日 (月) 19時10分

森広さん、コメントありがとうございました。また、輸血に関する解説も拝読しました。
この事件で私が最も引っかかっているのは、「麻酔科医が院内生血を集めたが、結局は使用しなかった」という点です。
「大量出血」に加えて、何かが起こったようなきがしてなりません。

投稿: clonidine | 2008年11月 5日 (水) 00時47分

>この事件で私が最も引っかかっているのは、「麻酔科医が院内生血を集めたが、
>結局は使用しなかった」という点です。
>「大量出血」に加えて、何かが起こったようなきがしてなりません。

「麻酔科医が院内生血を集めたが、結局は使用しなかった」 のは、
ご存知のように、「GVHDを恐れて」 ということのようですね。
その他、感染なども怖いでしょうね。

ノルアドとポンピングである程度は血圧が保たれていたようですし、
院内生血が集まってからほどなく追加のMAPが届いたようです。

出血と輸液/輸血のin,outは、最終的には下記のようですので、

・総出血量約20,000 ml(羊水を含む)
・総補液量約15,000 ml

羊水2000ml近くを除外しても、3000mlアンダー不足です。
補液はご存知のように血管外にいく量も結構ありますし、
その他、3rd spaceや不感蒸泄もあることを考えると、循環血液量の
不足は3000mlをはるかに超えると推測されます。

高カリウム血漿や加藤医師の言う産科DICなども当然、
考えられますが、出血性ショックで死亡とする見解に
なんら疑問の余地はありません。

投稿: 森 広 | 2008年11月 5日 (水) 20時13分

×高カリウム血漿
○高カリウム血症

投稿: 森 | 2008年11月 5日 (水) 20時17分

ちなみに、下記もご存知のはず。

妊娠→血液凝固能の亢進→出血性ショック→産科DIC

投稿: 森 広 | 2008年11月 5日 (水) 20時23分

3rd spaceなるものは無い。(証明さfれていない)

http://vril.blog.so-net.ne.jp/2008-10-22

昨今は、古典的なサードスペースはないとの意見が大勢のようですね。
血管外には違いないようですけど。

投稿: 森 広 | 2008年11月 6日 (木) 08時53分

心エコー屋です。周術期にはかかわっていませんので理解不足かもしれません。よろしくお願いします

> 分娩室での心エコーにはその可能性がある

これは異変が生じる前に行うことを想定すればいいでしょうか?
とすれば塞栓系のものの場合は生じる前では?

> 突然心停止し懸命の蘇生

の段階では循環血液量不足以外の鑑別は難しいのでは?

投稿: ebisu | 2008年11月22日 (土) 15時33分

コメントありがとうございます。たしかに、完全に停止した後の心臓にエコーをあてても、ご指摘のとおりだと思います。

当方の限られた周産期母体心停止の経験では、対象が若い女性のせいか、「心停止即死亡」とならないケースが多い気がします。
自験6例中5例は、心停止後に一度は心拍を再開し、2例は歩いて退院しました。
再開しなかった1例は、他院からの心停止後の搬送症例でした。
心拍再開後にすかさず心エコーをすれば、とりあえずカテコラミンかボリュームか、はたまた塞栓除去か、といった治療戦略がたてられるのではと思います。

なお、個人的には「周産期心筋症」や「分娩による血行動態変化→卵円孔関係の塞栓」は、教科書的な数値よりも頻度が高いと考えております。
当方は夢やぶれて大学を去った人間ですが、可能ならばだれか引き続いて研究してもらえたらなあと、夢見ております。

投稿: clonidine | 2008年11月23日 (日) 22時17分

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