めずらしく、マジメな話をさせていただく。
福島県立大野病院における帝王切開母体死亡をめぐる裁判が一段落したかと思いきや、今度は都立墨東病院における脳出血合併妊娠母体死亡で世間は大騒ぎである。一連の事件の背景にある、産科医不足や分娩そのもののリスクについては、幾多の優秀なブロガーが取り上げているので、ここでは割愛する。しかし私が一麻酔科医として、2年以上腑に落ちないことがある。それは、医学的な直接死因として
大野病院における帝王切開母体死亡は、単なる失血死だったのか?
という点である。この事件は何かと、奈良県の大淀病院や今回の墨東病院での周産期母体死亡とセットで語られることが多いが、「脳出血」という直接死因が明瞭な後2症例と比べて、この症例の直接死因については「単純な失血死」としては納得できない点が多い。
1.ホントの術中出血量は?
「失血死」とこの事件は大々的に報道されているにもかかわらず、この症例の術中出血量は未だ公表されていない。
麻酔科医の証人尋問で登場する数字は、2000,2555,7675といった数字である。福島県の報告書の文中では5000mlとの記載がある。報道によっては12085mlという記事もある。一方、検察側の論告求刑では20445mlとされているが、「麻酔記録の読み方をしらない検察が麻酔記録の出血量の欄に並ぶ数字を単純に足してしまった大チョンボ」という説もある。この裁判で検察側は、「臍帯と靭帯を混同」「クーパーを単なるハサミと誤解」といったシロートくさい数々のチョンボがあるので、この程度のチョンボはやりかねないと私は思う。
確かに、周産期の突発的な大出血では現場は修羅場になり、正確な出血量のカウントにはとても手が廻らない、というのは理解できる。しかし、これだけ日本の産科医療を震撼させた事件で、出血量が5~20リットルとリットルベースの推定においても未だ見解の一致を見ないというのは、由々しき事態だと思う。
2・麻酔科医の裁判証言より
ならば「最も信頼できる出血量の数値は?」と訊かれれば、「麻酔科医の証言する数値」だと答えたい。手術中の出血量の把握は、麻酔科医の仕事の一部であるし、検察・マスコミ・県の役人・担当麻酔科医の言う出血量が食い違っていたら、四者のうちで麻酔科医の言う数値を信頼するのは私だけではあるまい。
また、この麻酔科医は今後の民事裁判で産科医ともども訴えられる可能性は多いにある。こうした中で麻酔科医にとっては「裁判所が認める出血量が多ければ多いほど有利」である。出血が多いほど責任は産科医に重くなり、「下手な産科医につきあわされた気の毒な麻酔科医」と印象づけることができるからである。ゆえに、せっかく検察が20リットルという値を主張しているのに、あえて8リットル弱の数値を(自分に不利になるかもしれないのに)証言したのは、やはり真実の出血量の値がその近辺にあるからのような気がしてならない。
この事件で麻酔科医は、病院職員から緊急輸血をつのったが、GVHDを恐れて結局その血液は使用しなかった。このことからも、7675mlというデータに信憑性がうかがえる。出血20リットル超だったなら、問答無用で使用していたはずである。
なお同業者として言わせていただければ、この麻酔科医の臨床レベルはきわめて真っ当である。輸血の到着を待つ間をへスパンダー+ノルアドレナリンのワンショットでしのいだり、ショック状態の中でケタミン+サクシンで脊椎麻酔→全身麻酔にしたり、「慢性人手不足の僻地病院で修羅場をくぐって苦労してきたんだなー」と、しんみりしてしまう。フリーランスに転進すれば盛業するタイプと推察できる。
3.周産期の原因不明の心停止
麻酔科医の証言から推測されるストーリーはこうである。
「帝王切開で児を娩出した後に胎盤娩出が困難で大量出血をきたし、母体はショック状態におちいり、準備輸血を使い果たした麻酔科医は院内職員より輸血を募った。子宮全摘によって出血は下火になり、バイタルは低空飛行ながら安定してきたので麻酔科医は院内輸血の使用を保留した。手術が終盤を迎えた頃、産婦は突然心停止し懸命の蘇生にも反応しなかった」
ならば、なぜこの妊婦の心臓は止まったのか?
解剖も最近流行のAiも行われなかったので推測の域を出ないが、私が思いつくのは
・羊水塞栓症
・周産期心筋症(産褥期心筋症)
・肺血栓塞栓症
・肺塞栓が卵円孔を介して左房に迷入→脳塞栓
・大量輸血に伴う電解質の乱れ→不整脈→心停止
・薬剤の取り違え(例:トランサミン(止血剤)とアスパラK(カリウム)を間違えてワンショットなど;ただしこの病院では手術室にノルアドレナリンすら常備されていないらしく、アスパラKが常備されている可能性は低い)
といったあたりである。
そして、現代の医学では未だ解明されず「臨床的羊水塞栓」などとお茶をにごされているが、要するに「はっきりと説明のできない周産期母体心停止」という現象はまれではあるが確かに存在する。この事実は謙虚に受けとめるべきである。
4.心エコーは母体死亡回避に有効か?
「ならば、どうすれば再発防止できるの?」と問われたら、「万能ではないが、分娩室での心エコーにはその可能性がある」と答えたい。
羊水塞栓や肺塞栓は急性右心不全の像(RV拡大、TR)を呈するし、周産期心筋症は拡張性心筋症の像を呈する。卵円孔開存の有無も確認できる。上記6疾患のうち4疾患までは、ルールアウトできるのである。
「分娩室に機械がないでしょ?」と判断するのは早計である。現在、日本のどんな分娩室でも、産科エコーは常備されている。それを心臓にあてればよいのである。詳細な定量的評価はできなくても、「ほぼ正常」「右心不全」「心拡大+壁運動低下」「循環血液量不足」程度の鑑別は可能である。
「誰が心エコーをやるんだよ、すべての麻酔科医ができるとはかぎらないよ」という意見もごもっともである。しかし、現在の産科医は箸を使うがごとく毎日産科エコーを行っている。エコー機械の扱い自体は、平均的な麻酔科医よりは秀でていることが多い。胎児心奇形を診断できる産科医も多い。ゆえに、胎児の心臓を診るようなベテラン産科医ならば、まる1日特訓すれば母体心エコーの初歩はマスターできると思う。
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